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東京高等裁判所 平成9年(行ケ)257号 判決

原告

ザ リージェンツ オブ ザ ユニヴァーシティ オブ カリフォルニア

代表者

【A】

訴訟代理人弁理士

【B】

訴訟復代理人弁理士

【C】

被告

特許庁長官【D】

指定代理人

【E】

【F】

【G】

【H】

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

この判決に対する上告及び上告受理の申立てのための付加期間を30日と定める。

事実

第1請求

特許庁が平成7年審判第14699号事件について平成9年5月12日にした審決を取り消す。

第2前提となる事実(当事者間に争いのない事実)

1  特許庁における手続の経緯

原告は、名称を「新生表現型の抑制を制御する産生体及び方法」とする発明につき、1988年10月31日アメリカ合衆国においてした特許出願に基づく優先権を主張して、日本国を指定国として1989年10月30日国際出願(PCT/US89/04808)をし、平成3年4月30日、それに基づく特許法184条の5第1項の規定による書面を提出したが(平成2年特許願第500324号)、平成7年4月18日拒絶査定を受けたので、同年7月14日拒絶査定不服の審判を請求した。

特許庁は、この請求を同年審判第14699号事件として審理した結果、平成9年5月12日、本件審判の請求は成り立たない旨の審決をし、その謄本は、同年6月23日原告に送達された。

2  本願請求の範囲第1項に記載された発明(以下「本願発明」という。)の要旨内因性の野生型RB蛋白質を有しない癌細胞の腫瘍表現型を抑制するための活性成分として哺乳動物の網膜芽腫遺伝子を含む薬剤組成物。

3  審決の理由の要点

(1)  本願発明の要旨等

本願発明の要旨は、前項記載のとおりである。

(2)  引用例

ア これに対し、本願優先権主張日前に米国において頒布された刊行物である「Nature」329巻642頁ないし645頁(1987年)(甲第5号証。以下「引用例」という。)には、

(ア) 643頁に、ヒトRB遺伝子全DNA配列が記載され、

(イ) 642頁左欄下から22行ないし下から1行には、「遺伝病である網膜芽腫に対する感受性を決定するヒトRB遺伝子は、最近分子遺伝子技術により特定された。前回の結果は、このRB遺伝子の完全不活性化が腫瘍発生に必要とされることを示した。腫瘍抑制遺伝子として、RB遺伝子は、他の腫瘍遺伝子と反対のやり方で機能する。RBcDNAクローンの配列解析によれば、長いORFを有し、これによりコードされる推定蛋白質は、DNA結合機能を有する特徴を有することが示唆された。・・・今回、このRB蛋白質は、分子量約110,000 ないし114,000 のリン蛋白質であり、そのほとんどは核内に存在することがわかった。・・・これらの結果を総合すると、RB遺伝子産物は、細胞内で他の遺伝子を調節する機能を果たすことが示唆される。」という旨が記載されており、

(ウ) さらに、645頁左欄下から12行ないし右欄3行には、「以前のデータ及び核に局在化しているという今回の結果は、RB蛋白質の遺伝子調節機能を支持するものである。DNA結合活性が、このRB蛋白質を簡単に検出する活性であり、その機能の最も重要な指標になり得る可能性がある。・・・他の腫瘍遺伝子とは対照的に、RBリン蛋白質(分子量110KD)の不存在が、腫瘍発生をもたらすようである。RBリン蛋白質が他の遺伝子の調節に重要であれば、RBリン蛋白質の欠失によるこれら他の遺伝子の脱調整が、腫瘍発生を媒介するのかもしれない。このRBリン蛋白質の活性を調節する他のファクターと、このRB蛋白質により調節されるターゲット遺伝子を特定することが重要になるであろう。」と記載されている。

イ 結局、引用例には、

(ア) 網膜芽腫に対する感受性を決定する、すなわち、その遺伝子座の欠損により網膜芽腫が発症することがあるヒトRB遺伝子の全塩基配列が記載されていると認められる。

(イ) また、その遺伝子産物であるヒトRB蛋白質は細胞内で他の遺伝子(ターゲット遺伝子)に結合することで該ターゲット遺伝子を調節する機能を有すること、及び細胞がRB蛋白質を有しないことでターゲット遺伝子の脱調整を引き起こし腫瘍発生をもたらすこと、すなわち、癌細胞の腫瘍表現型として、内因性野生型RB蛋白を有しないこと、及びRB遺伝子の完全不活性化等RB遺伝子の欠損がその原因となることが示唆されていると認められる。

(3)  対比

そこで、本願発明と引用例の記載とを対比すると、引用例に記載のヒトRB遺伝子の全塩基配列は、本願発明における哺乳動物の網膜芽腫遺伝子の全塩基配列と一致し、両遺伝子は実質的に同じものであると認められるので、両者は、哺乳動物の網膜芽腫遺伝子が記載されている点、及び内因性の野生型RB蛋白質を有しないことが癌細胞の腫瘍表現型の原因であることが記載されている点で共通するが、前者では、この哺乳動物の網膜芽腫遺伝子を、内因性の野生型RB蛋白を有しない癌細胞の腫瘍表現型を抑制するための薬剤組成物の活性成分として用いるのに対して、後者ではそのような用途の記載がない点で、両者は相違している。

(4)  審決の判断

ア(ア) 本願優先権主張日当時、「遺伝子治療」という概念は周知であり、単一遺伝子異常疾患に対して、担体が何であれ、その欠陥遺伝子を補充すれば、疾患を治療できることが広く期待されていたことである。

(イ) そして、ヒトに対する臨床試験の前段階として、動物実験での遺伝子治療としての遺伝子導入については、例えば、本願発明においても使用されている担体であるレトロウィルスベクターを使用することが、マウスにおける欠陥遺伝子の補充に効果があることが既に周知であった(必要があれば、「Molecular andCellular Biology」7巻3459頁ないし3465頁(1987年。甲第3号証)、「Proc.Natl.Acad.Sci.USA」83巻2566頁ないし2570頁(1986年。甲第4号証)参照)。

(ウ) また、RB蛋白をコードする遺伝子を、上記担体であるレトロウィルスベクターに組み込むことに格別の困難性は認められない。

イ してみると、RB遺伝子に欠損を有するために網膜芽腫細胞となった細胞に対してその欠陥遺伝子を補充する目的で、あるいは内因性の野生型RB蛋白を有せずその癌細胞となった細胞に対してRB蛋白をコードする遺伝子を補充する目的で、引用例に記載のヒトRB遺伝子を担体としてのレトロウィルスベクターを使用して遺伝子治療のための薬剤組成物として用いること、すなわち、本願発明の前記相違点のごとくすることは、上記周知の遺伝子治療技術を適用することにより、当業者であれば容易になし得たことである。

ウ そして、本願発明において効果が確認されているのは、網膜芽腫遺伝子欠損の感染網膜芽腫細胞系を感染させたマウスの両側腹部に、その一方に網膜芽腫遺伝子を導入し、片方に導入しなかった場合、導入した側の腫瘍形成が阻止できたという、マウスにおける網膜芽腫の発生の阻止効果だけであって、この効果は、引用例の記載及び上記周知の遺伝子導入法から予測できないほどの格別のものとは認められない。

(5)  むすび

したがって、本願発明は上記引用例に記載された発明及び前記周知の遺伝子治療技術に基づいて当業者が容易に発明をすることができたものであるから、本願は、特許法29条2項の規定により特許を受けることができない。

第3審決の取消事由

1  審決の認否

(1)  審決の理由の要点(1)は認める。

(2)  同(2)アのうち、

「他の腫瘍遺伝子」(甲第1号証3頁6行、7行)は「大多数の他の腫瘍遺伝子」と、

「DNA 結合機能を有する特徴を有することが示唆された。」(同3頁9行、10行)は「DNA 結合機能を有することが示唆される特徴を有する。」と、

「機能を果たすことが示唆される。」(同3頁15行)は、「機能を果たし得ることが示唆される。」と、

「以前のデータ及び核に局在化しているという今回の結果」(同3頁17行、18行)は、「予備的なデータ及び核に局在化しているという結果」と、

「RBリン蛋白質が他の遺伝子の調節に重要であれば」(同4頁4行、5行)は、「もしもRBリン蛋白質が他の遺伝子の調節に重要であれば」と

それぞれ訳されるべきであり、その余は認める。

同(2)イは認める。

(3)  同(3)のうち、両者が「内因性の野生型RB蛋白を有しないことが癌細胞の腫瘍表現型の原因であることが記載されている点で共通する」こと(甲第1号証5頁12行ないし15行)は争い、その余は認める。

(4)  同(4)アのうち、(ア)は認める。(イ)は争う。(ウ) は認める。同(4)イ、ウは争う。

(5)  同(5)は争う。

2  取消事由

審決は、本願発明は上記引用例に記載された発明及び前記周知の遺伝子治療技術に基づいて当業者が容易に発明をすることができたものであるから、本願は、特許法29条2項の規定により特許を受けることができない旨判断するが、誤りである。本願優先権主張日当時の周知技術に基づいて引用例を考察すると、当業者は、癌の予防及び治療等を目的とする遺伝子治療においてRB遺伝子を利用することの有効性を合理的な蓋然性をもって予測することはできず、RB遺伝子を本願発明の用途に使用することについての動機づけはなかったものである。

(1)  本願発明の構成及び効果

ア(ア) 本願発明は、請求の範囲第1項に記載されているとおり、「癌細胞の腫瘍表現型を抑制する」ことを目的として、哺乳動物の網膜芽腫遺伝子(以下「RB遺伝子」ともいう。)を活性成分として含む薬剤組成物に係る。

したがって、本願発明の薬剤組成物は、既存の癌細胞の腫瘍表現型(腫瘍を形成すること)を抑制することにより癌を治療するためのものであって、癌を形成しやすい素因を有するが、いまだ腫瘍表現型を獲得していない細胞(正常細胞)における腫瘍表現型の誘発を阻止又は予防するためのものではない(甲第8号証(【I】博士の鑑定書)第Ⅱ節)。

よって、本願発明の進歩性の有無は、既存の癌細胞の腫瘍表現型をRB遺伝子を用いて治療するための薬剤組成物が容易に想到し得たかという観点から判断されねばならない。

(イ) なお、本願請求の範囲第3項(甲第6号証)には、「癌の予防のための」薬剤組成物が記載されているが、上記第3項は、本願請求の範囲第1項(本願発明)の従属請求項であるので、「癌細胞の腫瘍表現型を抑制するための」という上記第1項の必須要件を満たした上で、付加的要件として癌細胞への誘導の阻止又は予防をも対象とする薬剤組成物を記載しているにすぎない。

イ 本願明細書中のヌードマウスを用いる実施例(甲第7号証76頁ないし78頁)は、本願発明に従って癌細胞の腫瘍表現型を抑制し得ることを明確に教示している。このようなRB遺伝子の機能は、このヌードマウスを用いる実験によって初めて確立されたものである。

(2)  網膜芽細胞腫の発症プロセスについての知見

本願優先権主張日当時、癌細胞は通常、複数の遺伝子の欠陥によって生じると考えられており、腫瘍形成の要因として1つの欠陥遺伝子が特定されたとしても、当業者は、その遺伝子のみを補充することで癌細胞を有効に処置することができることを容易に想到し得なかったものである。

ア 引用例

(ア) 引用例(甲第5号証)は、RB遺伝子の欠陥が癌細胞の腫瘍表現型の原因となり得ることを示唆するにすぎない。この点は、引用例が「このRBリン蛋白質の活性を調節する他のファクターと、このRBリン蛋白質により調節されるターゲット遺伝子を特定することが重要になるであろう。」と結んでいることからも明らかである。

なお、「imply」(甲第5号証原文642頁左欄下から2行)は、「suggest(示唆する)」の同義語であって、「mean(意味する)」とは異なる。

(イ) そして、RB遺伝子の欠陥が癌細胞が腫瘍を形成することの原因となり得ることの示唆だけでは、当業者に、遺伝子治療のための薬剤組成物の活性成分としてRB遺伝子を使用することにつき十分な動機づけを与えるものではない。

イ 鑑定書等

(ア) 甲第8号証(【I】鑑定書)によれば、本願優先権主張日当時、本願発明の対象となる「内因性の野生型RB蛋白を有しない癌細胞の腫瘍表現型」は、単一遺伝子異常疾患であるとは考えられておらず、かえって、癌細胞は通常、複数の遺伝子の欠陥によって生じることが知られていた。これは、腫瘍形成を抑制(治療)するためには、複数の要因のすべてを特定し、それらを正常に戻すことが必要であろうという理解を導く。したがって、腫瘍形成の要因として1つの欠陥遺伝子が特定されたとしても、当業者は、その遺伝子のみを補充することが癌細胞の処置に有効であり得ることを容易に想到し得なかったものである。

すなわち、本願優先権主張日当時、複数の遺伝的欠陥を有する癌細胞が腫瘍を形成するまでに至るプロセスは、ほとんど解明されていなかった。したがって、複数の遺伝的欠陥による変異が相互に複雑に作用して腫瘍を形成するというプロセスの方が、はるかに蓋然性の高いものと理解されていた(甲第10号証参照)。

(イ) また、本願発明者らのグループは、甲第13号証(「Nature」309巻458頁ないし460頁。1984年)において、RB遺伝子が、癌遺伝子であるN-mycと協同して、網膜芽細胞腫の腫瘍形成を導くという仮説を提唱している。

甲第13号証の上記記載を考慮すれば、引用例中の上記ア(ア)の記載は、RB遺伝子欠損が原因となる網膜芽細胞腫等の癌が、少なくともRB遺伝子の欠損と、N-mycのような癌遺伝子の活性化との各段階を含み、さらに、他のファクターにも制御され得る、複数の段階(マルチ・ヒット)を経由するプロセスで腫瘍形成に至ることを想定している。

(ウ) 甲第2号証(【J】鑑定書)は、本願優先権主張日当時の技術水準からは、当業者は本願発明を容易に予測し得なかったことを述べている。

具体的には、【J】鑑定書では、「I.はじめに」の節において、腫瘍形成のメカニズムに関する技術背景を概説した上で、癌の発現が複雑な種々の要因に影響されること、特に癌細胞が通常相当数の遺伝子の障害を含むことから、癌を処置するための医薬の作製に当たっても様々な考察が要求されることが述べられている。この節の最終段落では、このような技術水準を踏まえて、本願発明者らの成果が非常に驚くべきものであり、本願発明がまさにパイオニア発明の名に値すべきことが強調されている。

【J】鑑定書では、次に、「Ⅲ.遺伝子治療の問題」の節において、審決が引用した甲第3、第4号証が本願発明の効果を示唆しない理由が詳述されている。すなわち、甲第3、第4号証が記載するアデノシンデアミナーゼ遺伝子と、本願発明の薬剤組成物における活性成分である網膜芽腫遺伝子とを比較したとき、アデノシンデアミナーゼ遺伝子の産物であるアデノシンデアミナーゼ(ADA)と網膜芽腫遺伝子の産物であるタンパク質(pRB)とはその機能において著しく異なること、そのため、遺伝子治療による効果を得るための必要条件もまた著しく異なるにもかかわらず、甲第3、第4号証ではそのような差異が考慮されていないこと、その結果、甲第3、第4号証に記載されたベクターがADA以外の遺伝子にも有用であることは全く予期されないことが述べられている。さらに、ADA欠損に起因する免疫不全病については、遺伝子治療のモデル疾患として十分な知見が得られていたという点で、本願発明が適用される「内因性の野生型RB蛋白を有しない癌細胞の腫瘍表現型」とは著しく異なることが指摘されている。

これらの指摘から、癌に対する遺伝子治療は、ADA欠損症に対する遺伝子治療とは根本的に発想が異なり、後者の知見は前者に容易に転用し得るものではないことが理解される。

(エ) さらに、ある癌が被告主張のrecessive cancer(劣性の癌)であることは、その癌を単一の遺伝子で処置し得ることを意味しない。癌において不活性化又は欠損している遺伝子が同定されたとしても、その遺伝子が腫瘍の形成を抑制するのに有効であるか否かは不明である。例えば、色素性乾皮症(甲第8号証訳文6頁21行)は、明らかにrecessiveな疾患であって、DNA修復遺伝子の変異が原因となって癌を生じ得るが、正常なDNA修復遺伝子を導入しても、既存の癌細胞の増殖を阻止する効果は得られていないものである。

ウ 被告の主張に対する反論

(ア) 被告は、腫瘍細胞と非腫瘍細胞との細胞融合について記載する文献(乙第5号証等)に基づく主張をするが、これらの文献は、細胞融合に使用された非腫瘍細胞(そのゲノム全体)がRB癌細胞の増殖を逆行させ得る1つ又はそれ以上の要因を含むことを教示しているにすぎず、被告の上記主張は失当である。

(イ) 被告は、recessive cancerが腫瘍抑制遺伝子の不活性化を原因として生じる旨主張するが、本願優先権主張日当時、腫瘍抑制遺伝子についての研究は遅れており、その存在はいまだ仮説の域を出ていなかった。したがって、recessivecancerと腫瘍抑制遺伝子として想定された因子との因果関係は、確立されるにはほど遠い状況であった。

(3)  レトロウィルスベクターの使用について

本願優先権主張日当時、遺伝子治療という概念自体、及び遺伝子導入のためのレトロウィルスベクターの使用自体は周知だったとしても、そのようなレトロウィルスベクターの使用により、欠陥遺伝子の種類に関わらず、遺伝子治療の効果が得られ、又は効果が期待されることが周知であったとはいえない。

前記のとおり、甲第2号証(【J】鑑定書)では、アデノシンデアミナーゼ遺伝子の産物であるアデノシンデアミナーゼ(ADA)と網膜芽腫遺伝子の産物であるタンパク質(pRB)とはその機能において著しく異なるため、遺伝子治療による効果を得るための必要条件もまた著しく異なることが述べられているものである。

第4審決の取消事由に対する被告の認否及び反論

1  認否

原告主張の取消事由は争う。

2  反論

(1)  本願発明の構成及び効果

ア 本願発明の請求の範囲の記載は、「内因性の野生型RB蛋白質を有しない癌細胞の腫瘍表現型を抑制するための活性成分として哺乳動物の網膜芽腫遺伝子を含む薬剤組成物。」と極めて広範なものである。

イ したがって、本願発明は、「癌細胞の腫瘍表現型を抑制するための薬剤組成物」に係るものとして、ヒトを含む哺乳動物体内の癌細胞が腫瘍表現型を獲得した後で投与する医薬組成物である「癌治療剤」のみならず、内因性の野生型RB遺伝子を有しないという癌を形成しやすい素因を有するが、いまだ腫瘍表現型を獲得していない細胞が腫瘍表現型へ誘発されることを阻止又は予防するための薬剤組成物をも包含するものである。

この点は、本願明細書中の実施例について、「クローン化RB遺伝子を予防を目的として脱毛マウスの1側部に投与した。」(甲第7号証62頁21行、22行)等と明記していることから明らかである。

ウ また、「医薬組成物」とは記載されておらず、「薬剤組成物」と記載されているから、生体から取り出した単なる細胞レベルでの癌細胞(培養腫瘍細胞)自体に適用する薬剤も包含する。

エ 原告は、本願発明の薬剤組成物は、既に存在する癌細胞の腫瘍表現型を抑制することにより癌を治療するためのものである旨主張する。

(ア) しかしながら、「抑制する」という用語は、癌に対して用いられた場合は、癌となってしまった状態を抑制することだけを一義的に意味するものではなく、いまだ癌となってはいないが癌状態となることを抑制することをも意味するものである。

(イ) また、上記本願の請求の範囲第1項を引用した従属項である第3項には、「前記薬剤組成物が癌の予防のためのもので、内因性の野生型RB蛋白質を有しない癌細胞が、野生型RB遺伝子を欠損していることを特徴とする請求の範囲第1項記載の薬剤組成物。」と記載されているが、この表現は、請求項1記載の薬剤組成物に係る発明中に、「癌の予防のための薬剤組成物」に係る発明が含まれることを前提とするものである。

(ウ) さらに、本願明細書(甲第7号証)中の「好ましい投与方法では、・・・適当なベクターによって投与されたクローン化癌抑制遺伝子は欠損癌抑制遺伝子をもつ、あるいは癌抑制遺伝子をもたない患者に予防及び/又は治療効果を与えるが、正常な遺伝補体をもつ患者には副作用は生じない。例えば調査診断により癌になりやすい素因があると診断された場合等のように、予防措置が必要であると診断された場合には、クローン化癌抑制遺伝子を患者に投与する。」(60頁18行ないし61頁1行)等の記載も、本願発明は、癌治療とともに、予防のための薬剤組成物を目的とする発明であること、しかも、RB遺伝子に欠陥がある又は欠損しているという癌に罹患しやすい遺伝学的素因が発見された段階でRB遺伝子を癌の予防用薬剤組成物として利用することを主たる目的とする発明であることを明らかにしている。

(エ) 原告は、本願明細書中のヌードマウスの実施例(甲第7号証76頁ないし78頁)は本願発明に従って癌細胞の腫瘍表現型を抑制し得ることを明確に教示している旨主張するが、そこで使用されているのは、腫瘍形成性の高い「網膜芽腫」又は「骨肉芽腫」の培養細胞であって、腫瘍表現型を獲得した癌細胞ではないから、当該培養細胞にRBウイルスを接種した場合に腫瘍形成しなかったという結果は、単にRB遺伝子又はその産生物が腫瘍表現型を獲得していない細胞(正常細胞)が腫瘍を形成し得る癌細胞へ誘導されることを阻止又は予防したというを意味するにとどまるものである。

(2)  網膜芽細胞腫の発症プロセスについての知見について

本願優先権主張日当時、RB遺伝子が劣性(recessive)の「腫瘍抑制遺伝子」であることは、当業者に広く認識されており、RB遺伝子欠損細胞に何らかの手段でRB遺伝子を補いさえすれば、RB遺伝子欠損が原因となる網膜芽細胞腫などの腫瘍表現型を抑制又は阻止することができることは、充分に予測されていた。

ア 引用例(甲第5号証)には、「以前の結果は、RB遺伝子の完全な不活性化が腫瘍形成に必要とされることを示している。」(642頁左欄本文3行、4行)ことを記載した上で、実験的事実を追加して、その実験結果が「RB蛋白質が細胞内で他の遺伝子の調節機能を果たしていることを支持するものである」こと(645頁左欄下から12行、11行)が記載されており、さらに、「RBリン蛋白質の欠失によるこれら遺伝子(原腫瘍遺伝子)の脱調節が、腫瘍の発生を媒介するものかもしれない。」(645頁左欄下から2行ないし右欄1行)と述べていることからみて、「細胞内のRB蛋白が完全に不活化されてはじめてその調節機能が失われることで、腫瘍発生が起きること」については、実験的に支持されるものとして記載されているものである。

なお、引用例中で用いられている「imply」(642頁左欄下から2行)は、前後の文脈から判断すれば、単にその「可能性を示唆している」という曖昧な予測ではなく、当該論文中で記載された実験の結果がすべて筆者の説を支持しているという結論を記述する際に用いられている用語であるから、「意味している」等確信に満ちた日本語に対応させるべきである。

イ 癌(悪性腫瘍)には、ある悪性腫瘍を惹起する遺伝子(一般に癌遺伝子と呼ばれる。)が加わるために発現する「dominant cancer(優性の癌)」と、ある遺伝子が欠損するために生ずる腫瘍である「recessive cancer(劣性の癌)」とがある(乙第12、第13号証)。

前者は、正常細胞中の原癌遺伝子が変異して癌遺伝子(oncogene)となり、通常、多段階のプロセスを経てその細胞を最終的に癌に導くものである。このタイプの癌の場合、ひとたび突然変異で癌遺伝子となってしまえば、もとの正常遺伝子を加えても、癌遺伝子が残っている限り癌化のプロセスは進行してしまい、正常に戻ることはない。

これに対して、後者のrecessive cancer の場合は、正常細胞中では細胞の増殖、死滅及び発達を制御している遺伝子が働かないことを直接の原因として起こるものである。当該遺伝子の1対のうち1つでも正常に働いていれば制御できるので、2つともが欠損又は不活性化して初めて制御がきかなくなり、細胞が異常増殖し癌化するものである。つまり、このタイプの癌の場合には、正常細胞であれば本来有しているはずの腫瘍抑制遺伝子が働かないことが腫瘍形成の直接の原因であるのだから、腫瘍形成という最終段階よりも前の段階で当該腫瘍抑制遺伝子を補ってやれば、その腫瘍形成が阻止又は予防できることは当然に予測される。

このことは、そもそもある癌がdominant cancerであるか、recessive cancer であるかを見分けるために用いられていた手法が、癌細胞と正常細胞との間で融合細胞を作り、その融合細胞が悪性を示す(腫瘍表現型を示す)か、正常に近い性質を示すかを調べる方法であることからみても自然に導かれる結論である。すなわち、dominant cancerであれば、融合細胞(hybrid)は癌細胞から癌遺伝子を受け継いでしまうから、正常細胞から何を補われても正常細胞に戻ることはないが、後者のrecessive cancerであれば、正常細胞から補われた遺伝子によって正常細胞の性質を示すこととなる(乙第13号証)。

そして、本願発明の「内因性の野生型RB蛋白質を有しない癌細胞」として最も典型的な癌は、網膜芽細胞腫であるが、網膜芽細胞腫は、単一のRB遺伝子の1対が両方ともに働きを失うことが、その腫瘍発生に必要かつ十分な癌である。この性質が、正にrecessive cancerの性質であるから、網膜芽細胞腫の細胞に対して欠損しているRB遺伝子を補えばその腫瘍形成が阻止できると考えることは、当業者にとって極めて自然である。

ウ 網膜芽細胞腫がrecessive cancerであったことは、本願優先権主張日当時、当業者に周知であった。

(ア) すなわち、網膜芽細胞腫については、1886年に報告されて以来症例が累積しており、既に1971年に【K】により、また、1973年に【L】により、突然変異の起こる頻度と発症時期の関係などから「2-ヒット説」が提唱されていた(乙第6、第12、第13号証等)。この2-ヒット説によれば、遺伝性の症例の場合、生殖細胞の段階で第1のhitたる遺伝子異常を生じ、網膜の細胞のみならず全身の体細胞がこの遺伝子異常を有するので、次に、第2hitたる体細胞突然変異が生じると、そこに網膜芽細胞腫が発現する。これに対し、非遺伝性の症例の場合には,第1、第2のhitがともに同一の網膜芽細胞に体細胞突然変異として生じ、網膜芽細胞腫が発現する。

この説によれば、遺伝性の場合の発症が若年性であり、遺伝性の症例が40%を占めることや両眼性、片眼性の別等の網膜芽細胞腫の特徴的な性質をすべてうまく説明することができる。

(イ) 網膜芽細胞腫患者についての詳細な染色体分析の蓄積から、患者の5%弱に染色体13番q14域の欠失を含む異常が認められ、この部分に網膜芽細胞腫の原因遺伝子、すなわちRB遺伝子が存在すると考えられた。さらに、RB遺伝子の近傍に存在することが判明したエステラーゼD(EsD)遺伝子をマーカーとする手法、又は種々の制限酵素断片で染色体DNAを切断してそれぞれの断片の染色体上の位置を同定する手法(RFLP)などにより、RB遺伝子の存在場所を探り、最終的にはRB遺伝子を同定しようと試みられていた。

前者のEsD検索の中で、網膜芽細胞腫患者のEsD活性が体細胞で正常の1/2、腫瘍細胞で0を示し、染色体分析では体細胞に異常を見いだせず、腫瘍細胞では染色体13番が欠損していたという報告例は2-ヒット説を支持するものである。(乙第12、第13号証)。その後、同様にマーカー遺伝子を駆使した検索により、第2hitたる体細胞突然変異の実際が明らかにされていた。

これらの事実から、網膜芽細胞腫は、RB遺伝子の変異により生ずるrecessivecancerであろうとの見方が有力であった(乙第13号証)。

さらに、1986年には【M】らから、1987年には【N】ら(本願発明の発明者ら)、【O】らから相次いでRB遺伝子のcDNAが取得されたことが報告されたが、RB遺伝子が正常ヒト細胞の染色体13番q14に存在し、患者ではmRNAの転写が全く見られないか又は転写異常が見られたとする結果も、この癌がRB遺伝子の2-ヒットを原因とするrecessive cancerであることに合致している。(乙第12、第13号証)。

(ウ) 前記のとおり、ある癌(悪性腫瘍)がrecessive cancerであることを生物学的に立証するためには、癌細胞と正常細胞とを細胞融合させて得られたhybridが正常に近い性質を示すか否かを調べる手法が用いられるが、乙第13号証は、乙第5号証の前報であって、網膜芽細胞腫がrecessive cancerであることを生物学的に立証するために、網膜芽細胞腫細胞と非腫瘍細胞の間に細胞融合を行いhybridを作ったことが明記されている。その結果、hybridのすべてが非腫瘍細胞様形態を示し、悪性の細胞形態を示すものは1つもなかったことからみて、この腫瘍がrecessive cancerであることが強く支持される。

そして、乙第5号証は、乙第13号証で「RBがrecessive cancerであると断定するには、さらにsoft agar中でのhybridの増殖の仕方を調べたり、ヌードマウスでの腫瘤形成能につき検討する必要があり、今後行なう予定である。」(121頁左欄3行ないし6行)と指摘されているsoft agar中での増殖の仕方を検討した実験である。すなわち、網膜芽細胞腫の細胞は、そのまま軟寒天培地(soft agar)中で培養すると増殖し多数のコロニーが形成されるが、乙第5号証において、非腫瘍細胞NIH3T3と融合したhybridでは増殖は抑制され、コロニーも形成されなかったという実験結果が得られており、網膜芽細胞腫がrecessive cancerであることが確実に示されている。ここで、soft agar中での増殖の仕方はin vivo系における腫瘤形成能(tumorigenicity)とはほぼ一致するから、この結果は上記hybridをヌードマウス腹腔内で培養すれば腫瘤形成能が阻止されることを示すものにほかならない。

(エ) さらに、乙第12号証には、分子生物学的及び生物学的アプローチをまとめて、「こうして、現在RBがrecessive cancerであることは間違いないものと考えられる。」(1227頁右欄)こととともに、「このRB遺伝子をRB腫瘍細胞中に取り込ませた時、腫瘍細胞が性質を変え、正常な細胞となるか否か、生物学的な面からの証明も是非行う必要がある。・・・さらにその彼方には、窮極の夢である遺伝子治療への道がある。遺伝子を補うことによりRBを治すことができればと期待される。」(1231頁左欄)と記載されており、単離されたRB遺伝子を網膜芽細胞腫の細胞に導入してsoft agarの増殖能中又はヌードマウス腹腔内での腫瘤形成能を調べようと想到することは当業者にとって極めて自然な思考の流れであり、遺伝子治療の夢を語れるほどまでにその成功を確信していたことを示している。

(オ) 以上のとおり、本願優先権主張日当時、当業者にとっては、網膜芽細胞腫の細胞にRB遺伝子を補うことで、in vitroの系のみならずヌードマウス腹腔内(in vivoの系)においても網膜芽細胞腫の細胞の腫瘍表現型を阻止することができることは充分に予測されていたことである。

エ(ア) 原告は、乙第5号証につき、癌細胞の表現型が複数の遺伝子の導入によって変化し得ることを示すにすぎない従来技術である旨主張するが、前記のとおり、網膜芽細胞腫がrecessive cancerであり、その原因となる腫瘍抑制遺伝子が単一のRB遺伝子であることがほぼ確実になっていた本願優先権主張日当時の当業者であれば、乙第5号証の細胞融合実験の結果をみれば、網膜芽細胞腫の細胞に対して非腫瘍細胞から補われたものこそ単一のRB遺伝子であることは、むしろ疑わないことである。

(イ) 原告は、色素性乾皮症は、recessiveな疾患であるにもかかわらず、正常なDNA修復遺伝子を導入しても既存の癌細胞の増殖を阻止する効果は得られない旨主張するが、色素性乾皮症が癌細胞と正常細胞との間で融合細胞を作り、その融合細胞が正常細胞から補われた遺伝子によって正常細胞の性質を示すことを確認されたことや、recessive cancer であることを認めるに足りる証拠はないから、原告の上記主張は、その前提を欠くものである。

(ウ) 原告は、N-myc遺伝子についての主張をするが、甲第13号証及び乙第3号証には、それぞれN-myc遺伝子が網膜芽細胞腫の腫瘍形成において主要な役割を有する可能性、及びRB遺伝子がそのN-myc遺伝子等の発癌遺伝子の発現を抑制する可能性が教示されているにすぎないものである。

(3)  レトロウイルスベクターの使用について

ア 本願優先権主張日前に、外来遺伝子をヒト細胞などの動物細胞内に導入する多数の方法のうちでも、特にレトロウイルスベクターを用いる方法が染色体に安定に組み込まれる効率の高い優れた方法であることは当業者にとって技術常識といえるものであった(乙第8ないし第10号証)。

イ すなわち、その効率の高さは、「組み換えウイルスの力価を上げれば、1回の感染でほとんどの細胞に安定に外来遺伝子を導入することも可能である」(乙第8号証102頁右欄9行ないし12行)といえるほど確実性の高いものであった。

ウ さらに、「遺伝子導入の受容細胞になり得る細胞の範囲を大きく広げることができる。骨髄、肝臓、皮膚などの組織の初代培養細胞を、試験管内で組み換えウイルスに感染させ、動物個体に戻すということも技術的に可能であり、遺伝子治療への応用が試みられている」(乙第8号証102頁右欄15行ないし20行)と記載され、「近年、レトロウイルスのLTRとpackage sequenceを利用したベクター系を用いて、外来遺伝子を動物細胞に効率的に導入する方法が開発され、遺伝子治療の前段階として生体内で外来遺伝子を発現させることも可能となってきている。」(乙第10号証181頁要約部分)と記載されているように、本願優先権主張日当時、レトロウイルスベクターは、遺伝子治療のための細胞内への遺伝子導入手段としても周知であった。

理由

1  本願発明の概要について

本願発明は、「内因性の野生型RB蛋白質を有しない癌細胞の腫瘍表現型を抑制するための活性成分として哺乳動物の網膜芽腫遺伝子を含む薬剤組成物。」を発明の要旨とするものであるところ、甲第7号証によれば、本願明細書には、本願発明に係る技術分野、背景技術、目的 及び効果 について、次のとおり記載されていることが認められる。

(1)  技術分野

「本発明は癌の表現型(形質)発現を制御する、哺乳動物の治療・予防産生体及び方法・・・に関する。」(1頁12行ないし14行)

(2)  背景技術

「患者に対する治療費からみた経済的なインパクトが癌の治療困難という考えと結びついて、癌の診断だけではなくその素因の究明について、また癌の治療及び/又はその素因を極めることについて信頼性の高い方法を実現するため研究が進行中である。癌研究の焦点の多くは症状の診断や治療に向けられている。最近、細胞レベルや細胞下レベルにおける生化学プロセスの認識が進んできたため、癌の診断や治療だけでなく、生体における癌素因の発見についての方法に注意が払われるようになってきた。このような素因を究めるために、生体における癌抑制機構を確定する研究が行われている。 これら研究では“癌抑制”は元来腫瘍細胞と通常の線維芽細胞、リンパ球やケラチノサイトとが形成する融合細胞に認められる腫瘍形成性の欠損と定義されていた。そしてこの作用は通常細胞における支配的な抑制因子によって仲介されると考えられていた。・・・

証拠によればこれら因子は一部は個体発生的であった。というのは、腫瘍形成性の抑制と融合細胞におけるある種の染色体の存在との間には相関関係が認められたからである。」(2頁23行ないし3頁20行)、

「ところが、全ヒト染色体は転移されていたので、癌抑制を分子的に定義された遺伝要素に結びつけることはできなかった。加えて、全ヒト染色体の転移は実験以外の基準で試みた場合には、大きな問題になることがある。治療に好適な染色体を調製するのはかなりの熟練を必要とし、時間だけでなくコストもかかる作業である。この結果、多くの用途にとってこの技術は許容できない。これら理由から、患者への染色体導入に伴う問題を解決できる、治療上及び予防上の両者からみて、癌治療を生物工学的に実現する方法が強く望まれている。」(4頁4行ないし13行)

「即ち、これら腫瘍の形成に関与する遺伝子は従来の腫瘍遺伝子の場合と同様に、活性化というよりは機能欠損によって腫瘍形成性になるものと考えられる。・・・

この典型的な例はJ.Cell,Biochem.(1988)に発表された通常は3年後以内に見られる網膜芽腫である。Am.J.Dis.Child.132:161,Science208:1042(1980)及びJ.Med.Genet.21:92(1984)に発表された厳密な分析や、Nature305:779(1983) に発表された制限鎖多形性(RFLP)に関する研究の示唆によれば、網膜芽腫は染色体バンド13q14に認められ、かつRB又はRB-1と呼ばれる遺伝子座の欠損により発症することがある。RB遺伝子に一致する特性をもつこの領域からの遺伝子は分子生物学的に既にクローン化されている。・・・この遺伝子が4.7kbmRNA転写として発現することは検査された正常組織にすべて認められたが、網膜芽腫細胞では検出できないか、変化していた。・・・また、多くの場合、RB遺伝子内部に突然変異が認められた。・・・このデータはクローン化RB遺伝子が一応同定されたことを示唆している。」(4頁21行ないし5頁25行)、

「RB遺伝子の癌抑制特性を確定した証拠に照らして、RB遺伝子を網膜芽腫感受性の診断手段として使用することが既に行われている。これら診断法及び診断手段はRB遺伝子のクローン化、単離、同定及び配列決定について開示している米国特許出願第108,748号明細書に記載されている。さらに、この出願明細書には網膜芽腫、骨肉腫や線維肉腫を診断する手段としてクローン化網膜芽腫遺伝子cDNAを使用する方法についても開示がある。

さらに別な米国特許出願第098,612号明細書には、主に細胞核に存在し、かつDNA結合活性をもつリンタンパク質ppRB110が開示されている。RBmRNAと同様に、このタンパク質は多くの型の培養ヒト細胞にも認められている。また、pp110RBはそれぞれDNA腫瘍ウィルス及びアデノウィルスの転移タンパク質であるラージT抗原及びE1Aと密接な関係があることも判明している。・・・RB遺伝子産生物やこれを含む複合物についても、これらがDNA結合活性をもつことが判明している。・・・これら研究が間接的に示唆していることは、pp110RBが他の細胞遺伝子の発現制御に関与し、かつある種の転移タンパク質の腫瘍形成作用を緩和することもあるということである。」(6頁6行ないし7頁4行)、

「現状の癌研究の多くは癌発見と癌を発症しやすい素因を対象としている。従って、非常に望ましいことは、腫瘍発生を未然に阻止できるか、より重要には発症を完全に防止できる癌治療の予防方法を確立することである。」(7頁5行ないし8行)、

「即ち、癌の遺伝学的素因を診断する診断手段の開発はかなり進んでいるにもかかわらず、癌の治療や予防には依然として前に述べたような重大な制限がある。」(7頁20行ないし22行)、

「従って、生物工学的な技術により癌を予防及び/又は治療できるようになることが強く望まれている。」(8頁11行、12行)

(3)  目的

「本発明の第1目的は癌抑制を制御するのに有用である全体的に安全な治療・予防方法及び産生物を提供することにある。

本発明の別な目的は生物工学的な方法及び産生物を使用することによって癌腫瘍根絶の特効を示す癌抑制を制御する産生物及び方法を提供することにある。

本発明のさらに別な目的は活性成分が自然遺伝子又は置換遺伝子からなる癌治療用又は癌予防用薬剤組成物を提供することにある。本発明のさらに別な目的は活性成分が自然及び/又は置換癌抑制遺伝子からなる癌治療用又は癌予防用薬剤組成物を提供することにある。

本発明のさらに別な目的は活性成分が自然及び/又はクローン化非欠陥形RB遺伝子又は遺伝子フラグメントからなる、網膜芽腫に罹患した、あるいはその他の欠陥、突然変異または欠損RB遺伝子をもつ遺伝子を保有する動物の治療及び/又は予防治療に使用する薬剤組成物を提供することにある。

・・・本発明は不活性又は欠陥癌抑制遺伝子の染色体位置を確定する癌の遺伝子治療方法を提供するものである。この場合には、好ましくはクローン化した置換遺伝子を使用して、染色体中の不活性又は欠陥癌抑制遺伝子と置換する。これを治療に使用するだけでなく、本発明は癌に罹患しやすい遺伝学的素因をもつ者を予防治療する手段・・・を提供するものでもある。」(8頁21行ないし9頁24行)

(4)  効果

「本発明は放射線療法及び/又は化学療法の必要性が少ない、癌治療方法を提供する。さらに、本発明方法は癌に罹患しやすい遺伝学的素因を発見した後比較的早い段階で、しかも腫瘍形成の開始前に適用することができる。

さらに、本発明には、全染色体より小さく、かつ一般に安定性が高く、クローン化が容易な遺伝学的物質を使用できる利点がある。」(10頁3行ないし9行)

2  本願発明の薬剤組成物の投与目的、効果について

(1)  前記1に説示した本願明細書の記載内容及び本願請求の範囲の他の項の記載によれば、本願発明の要旨(請求の範囲第1項)にいう「癌細胞の腫瘍表現型を抑制する」とは、癌細胞が腫瘍表現型を獲得した後で投与する医薬組成物である「癌治療剤」のみならず、いまだ腫瘍表現型を獲得していないRB遺伝子を欠損した癌細胞における腫瘍表現型の誘発を阻止又は予防するための薬剤組成物をも包含するものと認められる。

ア  すなわち、甲第6号証によれば、本願明細書の請求の範囲第2項は「前記薬剤組成物が癌の治療のためのもので、内因性の野生型RB蛋白質を有しない癌細胞が、野生型RB遺伝子を欠損していることを特徴とする請求の範囲第1項記載の薬剤組成物。」と規定し、同第3項は「前記薬剤組成物が癌の予防のためのもので、内因性の野生型RB蛋白質を有しない癌細胞が、野生型RB遺伝子を欠損していることを特徴とする請求の範囲第1項記載の薬剤組成物。」と規定していることが認められ、これら請求の範囲第2項及び第3項の記載によれば、本願発明(請求の範囲第1項)は、癌の治療薬剤を規定する第2項及び癌の予防薬剤を規定する第3項を包含する上位概念のものであると認められる。

イ  さらに、前記1に説示した本願明細書の記載も、本願発明の要旨にいう「癌細胞の腫瘍表現型を抑制する」とは、いまだ腫瘍表現型を獲得していないRB遺伝子を欠損した癌細胞における腫瘍表現型の誘発を阻止又は予防するだけのものをも包含することを示していると認められる。

(2)  また、本願発明は、「内因性の野生型RB蛋白質を有しない癌細胞の腫瘍表現型を抑制するための活性成分として哺乳動物の網膜芽腫遺伝子を含む薬剤組成物。」と規定され、「生体内の細胞」との限定は付されていないから、生体から取り出した単なる細胞レベルでの癌細胞(培養腫瘍細胞)をも含むすべての癌細胞を対象としていることが認められる。

(3)  上記認定に反する原告の主張及びこれに沿う甲第8号証(【I】鑑定書)中の記載部分は、上記に説示したところに照らし、採用することができない。

(4)  したがって、以下においては、いまだ腫瘍表現型を獲得していない内因性の野生型RB蛋白質を有しない癌細胞、しかも、細胞レベルのものについて、腫瘍表現型の誘発を阻止又は予防するための活性成分として哺乳動物の網膜芽腫遺伝子を含む薬剤組成物が進歩性を有するか否かについて判断することとする。

3  引用例の記載事項、及び本願発明との一致点、相違点の認定

(1)  引用例の記載事項

甲第5号証及び弁論の全趣旨によれば、引用例(【N】(本願発明の発明者)ほか「The retinoblastoma susceptibility gene encodes a nuclear phosphoprotein associated with DNA binding activity」(網膜芽腫細胞腫感受性遺伝子はDNA結合活性に関連する核核リンタンパク質をコードする)Nature 329巻642頁ないし645頁、昭和62年10月15日発行)の記載事項は、次のとおりであることが認められる(一部を除き、当事者間に争いがない。)。

「遺伝病である網膜芽腫に対する感受性を決定するヒトRB遺伝子は、最近分子遺伝子技術により特定された。前回の結果は、このRB遺伝子の完全不活性化が腫瘍発生に必要とされることを示した。腫瘍抑制遺伝子として、RB遺伝子は、大多数の他の腫瘍遺伝子と反対のやり方で機能する。RBcDNAクローンの配列解析によれば、長いORF(オープン リーディング フレーム)を有し、これによりコードされる推定蛋白質は、DNA結合機能を有することが示唆される特徴を有する。・・・今回、このRB蛋白質は、分子量約110,000ないし114,000のリン蛋白質であり、そのほとんどは核内に存在することがわかった。・・・これらの結果を総合すると、RB遺伝子産物は、細胞内で他の遺伝子を調節する機能を果たすことがことが示唆される。」(642頁左欄下から22行ないし下から1行。なお、原文における「imply」は、「may」の存在も考慮すれば、被告の主張のような強い意味を有していると解することはできない。)、

「予備的なデータ及び核に局在化しているという結果は、RB蛋白質の遺伝子調節機能を支持するものである。DNA結合活性が、このRB蛋白質を簡単に検出する活性であり、その機能の最も重要な指標に成り得る可能性がある。・・・他の腫瘍遺伝子とは対照的に、RBリン蛋白質( 分子量110KD)の不存在が、腫瘍発生をもたらすようである。RBリン蛋白質が他の遺伝子の調節に重要であるならば、RBリン蛋白質の欠失によるこれら他の遺伝子の脱調整が、腫瘍発生を媒介するのかもしれない。このRBリン蛋白質の活性を調節する他のファクターと、このRB蛋白質により調節されるターゲット遺伝子を特定することが重要になるであろう。」(645頁左欄下から12行ないし右欄3行)

(2)  一致点、相違点の認定

ア  本願発明と引用例の記載との対比については、本願発明と引用例の記載とは、「内因性の野生型RB蛋白質を有しないことが癌細胞の腫瘍表現型の原因であることが記載されている点」で共通することを除き、当事者間に争いがない。

4  引用例の記載について

(1)  前記3(1)に認定の引用例の記載は、本願優先権主張日当時の技術水準を念頭に、かつ、全体として読めば、1対の対立遺伝子からなるRB遺伝子において、両方の対立遺伝子が損傷され、RB遺伝子が遺伝子として機能しないとき(すなわち、RB遺伝子が完全不活性化・欠損し、内因性野生型RB蛋白質を産生しないとき)、網膜芽細胞腫が発症すること、すなわち、内因性の野生型RB蛋白質を有しないことが癌細胞の腫瘍表現型の原因であることを記載しており、しかも、このタイプの癌の場合には、腫瘍形成という最終段階よりも前の段階で当該腫瘍抑制遺伝子を補ってやれば、その腫瘍形成が阻止又は予防できることは当然に予測されることであるから、発明の完成に向けてある技術を採用することを動機づけるか否かという発明の進歩性の有無の観点からは、網膜芽細胞腫の細胞につき、腫瘍表現型を阻止することを目的として、ヒトの網膜芽腫遺伝子を含む薬剤組成物を調剤することを動機づけるには十分な記載であると認められる。

(2)  確かに、前記3(1)に認定のとおり、引用例は、「これらの結果を総合すると、RB遺伝子産物は、細胞内で他の遺伝子を調節する機能を果たすことが示唆される。」等の表現を採用し、断定的な表現をしているものではない。

しかしながら、引用例におけるこのような断定的でない表現は、科学的に厳密な証明の観点から採用されたものとみることができるのであり、このような表現がされているからといって、引用例の記載が、必ずしも網膜芽細胞腫の細胞につき、腫瘍表現型を阻止することを目的として、ヒトの網膜芽腫遺伝子を含む薬剤組成物を調剤することを動機づけるには足りないと認めることはできない。

すなわち、引用例の記載事項は、単に他の遺伝子を調節する機能を有するとの結論を述べているものではなく、これまでの研究結果やRB蛋白質が核内に局在しているとの研究結果に言及し、それらから推論される結論として上記結論を述べているものである。

(3)  さらに、引用例の上記記載事項を理解するために、本願優先権主張日当時における網膜芽細胞腫(RB)についての知見を検討すると、次のとおりである。

ア  乙第12号証(【P】「網膜芽細胞腫と遺伝子」眼科29巻11号1225頁。昭和62年10月5日発行)、乙第13号証(【P】ら「網膜芽細胞腫の分子生物学的研究 非腫瘍細胞と細胞融合実験 第1報」日本眼科学会雑誌92巻5号114頁。昭和63年5月10日発行)、乙第5号証(【P】ら「網膜芽細胞腫の分子生物学的研究 非腫瘍細胞との細胞融合実験 第2報」日本眼科学会雑誌92巻5号156頁。昭和63年5月10日発行)、及び乙第6号証(【Q】「網膜芽細胞腫の癌抑制遺伝子およびそのほかの癌発生との関連」実験医学6巻5号51頁。昭和63年5月1日発行)によれば、これらの医学論文には次の記載があることが認められる。

(ア) 乙第12号証「現在、本法を駆使しつつ、RB遺伝子の検索が精力的に行われており、よりRB遺伝子に近いDNAを求め続け、最終的にはRB遺伝子そのものを同定しようと試みられている。これを“chromosome walking technique”という。

V.RBは、ある遺伝子の欠失により生ずる腫瘍である(RBは、recessive cancer)一般に悪性腫瘍には、ある悪性腫瘍を惹起する遺伝子(oncogene)が加わるために発現するdominant cancerと、ある遺伝子が欠損するために生ずる腫瘍であるrecessive cancerとがある。

RBに関しては、前記のごとく染色体分析で、染色体13番q14域を含む欠失が5%前後の症例に認められることから、後者の可能性が考えられていた。

さらに、EsDを用いた検索の中で【R】ら(1983年)は、興味ある1例を報告した・・・。

本報告は、前述の“two-hit”説の正しいことを支持するとともに、RBがrecessive cancerであること、つまりwild typeのRB遺伝子が完全に欠損するために生ずる腫瘍であろうと結論している。」(乙第12号証1227頁左欄12行ないし右欄8行)

「また、筆者らは細胞融合を用い、RBY79細胞と非腫瘍細胞NIH3T3の間にhybridを作ることに成功し、hybridが非腫瘍細胞NIH3T3に類似した形態および性質を示したことより、RBがrecessive cancerであると報告した13)。」(同1227頁右欄12行ないし17行)

「最近のRB遺伝子に関する研究には、目を見晴らせるものがある。中でも【M】ら17)、【N】ら18)の論文は、ともにRB遺伝子に直接触れており興味深い。前者はH3-8からのchromosome walkingでつかんだp4.7Rであり、後者はEsD遺伝子からのchromosome walkingでつかんだRB-1、RB-5であるが、両者には共通する部分が多い(第2表)。両者のcDNAの大きさは、4.7kbと4.6kbとほとんど同じサイズであり、染色体13番q14における存在部位もほとんど同じと思われる。・・・前者では、その塩基配列を未だ求めておらず、両者が同じものであるか否かは、今後次第に明らかにされるであろう。

・・・。

また、【N】ら18)も触れているごとく、このRB遺伝子をRB腫瘍細胞に取り込ませた時、腫瘍細胞が性質を変え、正常な細胞となるか否か、生物学的な面からの証明も是非行う必要がある。・・・。

さらにその彼方には、窮極の夢である遺伝子治療への道がある。遺伝子を補うことによりRBを治すことができればと期待される。」(同1230頁右欄2行ないし1231頁左欄下から10行)(イ) 乙第13号証「悪性腫瘍細胞と正常細胞間のhybridを検索し、悪性の性質およびその調節、そしてその表現型発現のメカニズムにつき研究が行なわれるようになった。当初は上記の如く、悪性細胞と正常細胞間のhybridは全て悪性を示すものと考えられていたが27)~29)、正常に近い性質を示す場合もあることが明らかになり30)~33)、現在では悪性腫瘍には、前者の如きdominant cancerと、後者の如きrecessive cancerがあることが知られている。

前述の如く、RBは染色体13番q14に存すると考えられるRB遺伝子の欠損により生ずるrecessive cancerであろうとの見方が有力であるが、未だ生物学的に検討した報告はない。そこで著者らは、RBと非腫瘍細胞の間に細胞融合を行ないhybridを作り、その形態につき検討したので報告する。」(乙第13号証115頁右欄下から15行ないし1行)、

「hybridにはRBの如く処理培養皿にしか生着できないものは1つもなく、得られた60個のhybrid全てがanchorage dependentな性質を示し、しかもその細胞形態はいずれも紡錘型で、end to endの流れるが如き細胞配列を呈し、NIH3T3に極めてよく一致していた(図7、8)。

この結果は、本腫瘍がrecessive cancerであることを強く支持するものである。

もし仮に本腫瘍がdominant cancerであると仮定すると、dominantであるRB遺伝子がhybridのDNA中にも存在することになりhybridは「悪性」の表現型を示すものと考えられる。しかし、実際にはhybridは全例で例外なく「非悪性」であるNIH3T3とよく類似した表現型を示した。ヒトとマウスという種の違いはあるが、本腫瘍で欠損しているrecessiveなRB遺伝子が、細胞融合によりマウス細胞より補われたものと考えられる。」(同120頁右欄6行ないし21行)、「本実験において、本腫瘍に欠けていたRB遺伝子が、細胞融合によりNIH3T3細胞より補われたと考えることは、充分可能であると思われる。」(同120頁右欄下から12行ないし10行)

(ウ) 乙第5号証

「近年、染色体分析ならびにエステラーゼDやRestriction Fragment LengthPolymorphisms(RFLPs)といったマーカ-DNAによる検索が行われ、染色体13番q14域に、本腫瘍の発現に関する遺伝子が存在し、RB腫瘍自体ではその遺伝子が2本の染色体の双方で欠損しているのではないかと考えられるようになってきた。こうして、【K】,【L】が提唱した“two-hit”説が支持される一方、この遺伝子が追求されている。1)

我々は、本腫瘍が遺伝子欠損により生ずる腫瘍-これをrecessive cancerという-であるか否かを、細胞融合を用い生物学的な面から検討している。先にRB Y79と非腫瘍細胞NIH3T3間に細胞融合を行い、hybridの獲得に成功し、その形態が全て非腫瘍細胞3T3に極めて類似したものであったこと、したがって、本腫瘍はrecessive cancerであると考えられる旨報告した。2)

本論文では、更に、これらhybridの増殖速度、飽和密度、soft agar中での増殖能力につき検討し報告する。」(乙第5号証156頁右欄下から3行ないし157頁左欄17行)、

「悪性腫瘍には、遺伝子oncogeneが加わるために生ずるdominantcancerと、regulatorあるいはsuppressor遺伝子が欠損するために生ずるrecessivecancerとがある。

ある腫瘍が、dominant cancerであるか、それともrecessive cancerであるかを検討する生物学的手段として、細胞融合がある。悪性腫瘍と非腫瘍細胞を細胞融合しhybridを形成した時、悪性腫瘍がdominant cancerである場合には、oncogeneは細胞融合によりhybrid中にも存在することとなり、hybridは悪性を示す9)。一方、悪性腫瘍がrecessive cancerである場合には、悪性腫瘍で欠損していた遺伝子が、細胞融合により非腫瘍細胞より補われ、hybridは非腫瘍細胞の性質を示すことになる10)。」(同160頁左欄16行ないし29行)

「本実験においても、RB4で欠損していたRB遺伝子が、細胞融合により3T3#4から補われた、と考えることは充分可能と思われる。」(乙第5号証160頁右欄13行ないし15行)

(エ) 乙第6号証

「7.Rb遺伝子の問題点および今後の解析

第2ヒットとしてhomozygous deletionが腫瘍細胞で多く示されたが、【K】の仮説は証明されたといえるのか? この疑問はまだまだ追求されるべきものである。RFLPによる周辺データはあっても、直接的に第1ヒットが何であるのかを示したデータはまだまだ少ない。今後明らかにされるべき重要な課題である。

【O】らの報告13)のなかにあるheterozygous deletionが第1ヒットとどのように対応するのか、症例をかさねて検討する必要がある。またRB1のみならず、パルスフィールドゲルなどにより周辺の未知の遺伝子にも注意を向ける必要性も感じる。最終的な証明はfunctional testを待たねばならないが、抑制遺伝子で癌表現型に対して劣性であることから、アッセイ系が難しい。Rb-cDNAを何らかの形でRb細胞に導入して癌表現型がどう変化するかが出発点となるであろう。また、この遺伝子の標的はいったい何であろうか?」(乙第6号証56頁左欄1行ないし17行)

イ  これらの記載及び弁論の全趣旨によれば、本願優先権主張日当時における網膜芽細胞腫の発症プロセス等について、当業者に周知の事項は、次のとおりであったことが認められる。

(ア) 一般に悪性腫瘍には、ある悪性腫瘍を惹起する遺伝子(oncogene)が加わるために発現するdominant cancerと、ある遺伝子が欠損するために生ずる腫瘍であるrecessive cancerとがある。網膜芽細胞腫(RB)は、染色体分析の結果等から、RB遺伝子が欠損するために生ずる腫瘍であるrecessive cancerであると考えられてきた。ある悪性腫瘍がdominant cancerかrecessive cancerであるかを確認するために通常の方法である腫瘍細胞と非腫瘍細胞とを細胞融合する実験が網膜芽細胞腫(RB)についても行われたが、融合した細胞は、軟寒天培地(softagar)中での培養結果を含め、培養非腫瘍細胞の性質を示したことから、網膜芽細胞腫(RB)がRB遺伝子が欠損するために生ずる腫瘍であることが更に裏付けられた。融合した細胞が非腫瘍細胞の性質を示すのは、細胞融合によりRB遺伝子が非腫瘍細胞から補われたためであると考えられる。

(イ) RB遺伝子が同定されれば、RB遺伝子をRB腫瘍細胞に取り込ませる実験が可能となるが、その実験によって腫瘍細胞が性質を変えて正常な細胞となることが確認されれば、上記(ア)の知見は科学的に証明されたものとなる。

ウ(ア) 原告は、甲第2号証(【J】鑑定書)、甲第8号証(【I】鑑定書)等を引用して、本願優先権主張日当時、癌細胞は、通常、複数の遺伝子の欠陥(障害)によって生じると考えられていたのであり、網膜芽腫症等の内因性の野生型RB蛋白質を有しない癌細胞の腫瘍表現型が単一遺伝子異常疾患であるとは考えられていなかった旨、また、癌細胞が腫瘍を形成するプロセスもほとんど解明されておらず、複雑なプロセスを踏むものと理解されていた旨主張し、その結果、腫瘍形成の要因として1つの欠陥遺伝子が特定されても、その遺伝子のみの補充が癌細胞の処置に有効であるとは当業者は思いも付かなかった旨主張する。

確かに、前記乙第12号証によれば、同号証(【P】「網膜芽細胞腫と遺伝子」)には、「さらには、DNAレベルを詳細に検討することにより、どのようにしてmRNA転写の異常がRBで生ずるのか、そのメカニズムが明らかにされる必要がある。RB遺伝子は、supressorあるいはregulate geneであると考えられているが、それでは、そのsupressあるいはregulateされる遺伝子は何なのか。これについては、N-mycの可能性を挙げる報告もみられるが、否定的な見方も多い19)。いずれにせよ、RBが発現するまでの道のりを完全に明らかにするには、さらに時間がかかるであろう。」(1231頁左欄2行ないし12行)と記載されていることが認められ、この記載によれば、本願優先権主張日当時、網膜芽腫症の癌細胞が腫瘍を形成するプロセスは完全には解明されていなかったことが認められる。

しかしながら、前記説示のとおり、本願優先権主張日当時、網膜芽細胞腫(RB)がRB遺伝子が欠損するために生ずる腫瘍であることはほぼ裏付けられ、腫瘍細胞と非腫瘍細胞とを細胞融合する実験で融合した細胞が非腫瘍細胞の性質を示し、かつ、そのことは、細胞融合によりRB遺伝子が非腫瘍細胞より補われたものと考えることが当業者の理解であったものであり、上記腫瘍形成のプロセスが完全には解明されていなかったとしても、そのことが網膜芽細胞腫の細胞の腫瘍表現型を阻止することを目的として網膜芽細胞腫の細胞にRB遺伝子を補うことを動機づけることを妨げる理由とはならないと認められるから、原告の上記主張は理由がない。

(イ) 原告は、乙第5及び第13号証に記載された腫瘍細胞と非腫瘍細胞との細胞融合実験から非腫瘍細胞(そのゲノム全体)が、RB癌細胞の増殖を逆行させ得る1つ又はそれ以上の要因を含むことのみを教示されるものの、観察された現象が単一の遺伝子を原因とするものか否かを判断することはできない旨主張する。

しかしながら、細胞融合によりRB遺伝子が非腫瘍細胞から補われたとの当業者の理解は、前記説示のとおり、細胞融合の実験結果からだけでなく、染色体分析の結果等も総合した結果であるから、原告の上記主張も理由がない。

(ウ) また、原告は、ある癌がrecessiveであることは、その癌を単一の遺伝子で処置し得ることを意味しないとして、色素性乾皮症の例を指摘するが、甲第8号証(【I】鑑定書訳文6頁)及び甲第12号証(日経バイオテクノロジー最新用語辞典87)によれば、色素性乾皮症は癌ではないことが認められるから、原告の上記主張は、その前提を欠き、採用することができない。

(4)  以上によれば、引用例の記載は、網膜芽細胞腫の細胞につき、腫瘍表現型を阻止することを目的として、ヒトの網膜芽腫遺伝子を含む薬剤組成物を調剤することを動機づけるに十分な記載であると認められる。

5  レトロウィルスベクターの使用について

(1)  本願発明の優先権主張日当時、「遺伝子治療」という概念は周知であり、単一遺伝子異常疾患に対して、担体が何であれ、その欠陥遺伝子を補充すれば、疾患を治療できることが広く期待されていたこと、及び、RB蛋白をコードする遺伝子を、上記担体であるレトロウィルスベクターに組み込むことに格別の困難性は認められないことは、当事者間に争いがない。

(2)  ア 乙第8号証(【S】「レトロウイルスベクター」)及び乙第9号証(【T】ら「レトロウイルスベクターを利用したcDNAタイプのキメラ抗体遺伝子の作製」)によれば、乙第8、第9号証には、次のとおり記載されていることが認められる。

「レトロウイルスベクターの場合には、細胞への取り込みは、(ウイルスをベクターに用いる場合には一般にそうであるが)感染という形をとり、染色体DNAへの組み込みは、レトロウイルス特有のインテグラーゼによって触媒されるので、きわめて効率が高い。組み換えウイルスの力価を上げれば、1回の感染でほとんどの細胞に安定に外来遺伝子を導入することも可能である。またレトロウイルスの中にはマウスからヒトまで種を越えて、初代培養細胞も含めた様々な細胞に感染可能なものもある。こういったウイルスを用いることによって、遺伝子導入の受容細胞になり得る細胞の範囲を大きく広げることができる。骨髄3)~5)、肝臓6)、皮膚7)などの組織の初代培養細胞を、試験管内で組み換えウイルスに感染させ、動物個体に戻すということも技術的に可能であり、遺伝子治療への応用が試みられている。」(乙第8号証102頁右欄4行ないし20行)、

「一方、レトロウイルスは、形質導入ベクターとしていくつかの優れた性質をもっている。すなわち、レトロウイルスは多くの種類の細胞に遺伝子導入が可能であり、骨髄組織中の造血幹細胞1)、2)や動物の生殖細胞3)にも導入可能である。またSV40やアデノウイルスの増殖は細胞にとって致死的であるが、レトロウイルスは細胞を死滅させることなく感染性ウイルスを産生する。さらにⅢ-4で述べるように、Mannらが樹立したψ-2細胞4)を用いることにより、ヘルパーウイルスの混在していない、外来遺伝子をもつ組み換えウイルスのストックが得られるようになった。そしてヘルパーウイルスの2次的な作用を心配することなく、動物にも遺伝子導入が可能になった。」(乙第9号証第1016頁左欄下から9行ないし右欄4行)、

「一般にレトロウイルスベクターは、外来遺伝子を細胞に導入する系として、リン酸カルシウム法23)などに比較して、染色体に安定に組み込まれる効率1)、14)の高さと、いろいろな組織由来の初代培養細胞にも細胞を傷めることなく導入可能であるという点が優れていた。そして、さらに上述した方法を使うことにより外来遺伝子導入後は、その中のイントロンが除去されている可能性が高い17)ことやLTRからの転写と逆方向に外来遺伝子を挿入した時などに予想外のRNAスプライシングが起こりうることを除いては、レトロウイルスの形質転換細胞や外来遺伝子に対する影響を考えずに、その外来遺伝子発現による細胞や個体への影響を調べることが可能である。」(乙第9号証第1024頁左欄5行ないし右欄5行)

イ  以上の乙第8、第9号証の記載によれば、レトロウイルスベクターは、細胞に遺伝子導入する際に効率が高く、しかも多くの種類の細胞に遺伝子導入が可能なものであり、そのことは、本願優先権主張日当時、当業者に周知であったことが認められる。

ウ  したがって、これと同旨の審決の認定に誤りはなく、本願優先権主張日当時、遺伝子治療という概念自体、及び遺伝子導入のためのレトロウイルスベクターの使用自体は周知だったとしても、そのようなレトロウイルスベクターの使用により、欠陥遺伝子の種類に関わらず、遺伝子治療の効果が得られ、又は効果が期待されることが周知であったとはいえない旨の原告の主張及び甲第2号証の記載は採用することができない。

6  容易想到性

(1)  前記4に説示の引用例の記載、及び前記5に説示の遺伝子治療及びレトロウイルスベクターに関する知見によれば、ヒトRB遺伝子の全塩基配列についての情報を入手した当業者であれば、これに基づきDNAを合成することにより遺伝子を入手し、いまだ腫瘍表現型を獲得していないRB遺伝子を欠損した癌細胞における腫瘍表現型の誘発を阻止又は予防する目的で、上記入手したヒトRB遺伝子をレトロウィルスベクターに組み込むことにより、細胞レベルの上記細胞に取り込ませることに想到し、そのような薬剤組成物を調剤することは、本願優先権主張日当時の当業者にとって容易なことであったと認められ、これと同旨の審決の判断に誤りはない(弁論の全趣旨によれば、遺伝子の塩基配列情報があれば、この情報を基にDNAを合成してRB遺伝子を入手することができることは、本件優先権主張日前の技術常識であると認められる。)。

(2)  そして、本願発明のように構成することにより、その薬剤組成物が細胞レベルにおいて、いまだ腫瘍表現型を獲得していない内因性の野生型RB蛋白質を有しない細胞における腫瘍表現型の誘発を阻止又は予防するとの効果を奏することは、前記4に説示の知見によれば、本願発明の構成が当然奏すると予想される効果にすぎないと認められる。

これに反する原告の主張は採用することができない。

7  結論

よって、原告主張の取消事由は理由がないから、本訴請求を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(口頭弁論終結の日 平成11年12月21日)

(裁判長裁判官 永井紀昭 裁判官 塩月秀平 裁判官 市川正巳)

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